認知時間
 
                   磯 千明著

 じっくり和食と日本酒で、語らいの場を持ち、自然のままの曲がったキュウリを食べながら、ゆるりとした暮らしを楽しんでいたいものだ。多くを望まない生活があっても良いじゃないか、そもそも生きることは非効率だ。人を愛することも、急いでいいことなんかありゃしない。愛はスローな営みそのもだ。誰が効率的に愛してほしいと望むでしょう。愛は『いのちのつながり』なのだ。
  昨今は、ハンバーガーや牛丼を忙しなく胃袋に詰め込んで、パソコン片手に飛び回り、子どもは塾通いと、そんな世の中に疲れている。心が疲れている状態は医者にとっては歓迎される時代かもしれないね。彼・彼女らのカウンセリングは仕事であるから、「心の管理、商品化」ととらえ、ビジネスに走る。子どもに関する事件が起きるたびに「心のサインを見逃すな」と「不審児探し」に懸命になる。メディアにとっても心の病は商品として消化する「消費文化」時代である。何かあると直ぐに、「心の専門家」に頼るが、心のケヤーは、「日常的なごく当たり前の関係性を取り戻す」中でこそ心の安定を保つことが出来るそれを知ることである。人の思いは少しずつ違う。違うけれどもそれぞれの思いが重なるところで、互いに思いを共有することが可能なわけで、そこにこそ共に生きる道が開けるというのが私の人生観である。
 まあ、それはそれとして…、テレビ・コマーシャルに、「幸せを貯金できますよね!」というがある。なんとなくほのぼのとした気分が漂う。そのほのぼの感を分析すると次のようなことが見えてくる。
  人は感動したこと、幸せと感じたことを記憶にとどめておきたいし、時折それらを振り返ることが可能な時間をとどめられることを願っているから、「幸せ」を貯金したいのだ。人々がみずみずしい感動を心に留める術を心得ているなら、「幸せ」がもっと身近なものになるに違いないと考えるから、「幸せ」を貯金したくなる。しかし、現実は時間の経過とともに感動が薄れ、そもそも何に感動したかさせえ忘れがちな日常である。日々人々はせわしいのである。せっかちなのである。そこに「幸せを貯金できますよね! 」とくるから安堵感を呼び戻し、ほのぼのとした気分が漂うのであろうか。
 人は齢を重ねるとともに、人生経験を積み重ねた分だけ先入観でものを見てしまうので、新たな感動が生まれにくいのかのしれない。とはいっても感情が少しでも動くうちは、そこそこ感動する機会に恵まれるに違いない。感情の振り幅・感動を心に呼び込みたいと願うなら好奇心を持つことだ。人は幾つになっても好奇心を持つならそれが可能だと私は考える人間である。好奇心がむくむくと若々しい小枝を伸ばし、青々とした若葉を茂らせることが出来ると信じているのだ。ともあれ、歳老いたものにとって小枝に茂る柔らかな若葉は貴重な宝になる。ちょいとした思いつきのようなことでも書き記すことで新たな想像力が芽を出してくれる。そこで、感動を呼び起こす認知時間について考えてみたい。
 
 認知時間は大別して、「体内時間・心理的時間・時計時間」に分けられる。
 体内時間は、外界の物理的条件とは無関係に生物体内に備わっていると考えられる時間測定機構。生物が示す日周期性の概日(がいじつ)リズムはこれによると考えられる。いわゆる生物時計と呼ばれそれを想定していいだろう。それぞれの生物の生息する環境によって、独自に刻まれるリズムが作りだした体内時計だ。人間もそれぞれの生活環境によって体内リズムを持っているから、地球の裏側に一足飛びに移動すると時差ボケを起こす。それほど目に見えて感知できる時差ボケとはいわないまでも、寝起きする時間が大きくずれると、昼・夜が逆転してしまうことになる。感動する、しないの認知時間で考えるならば次のようなことになる。
  生活のリズムが酷く乱れているとすれば、どうしても体調を乱すことになるので、間接的に感情も乱れがちになるから好ましい状態ということはできないだろう。だからといって、認知機能が働かなくなると結論づけるには無理がある。体内時間の量を測定して計れるものに分類したとしても、人間の生活環境が自然から遊離して暮らしているので、基準になる座標が作れない。無理に作っても意味あるものとは考えられないのである。なお、心理的時間は、体内時間以上に測定不能である。
 
 心理的時間は、それぞれが体験する事態に対しての感じ方が違う。一定のリズムを基準にした時計時間での測定などできない時間の深さ・密度が支配するからだ。感動する、しないの認知時間で考えるとき、この心理的時間の深さ・密度が問題になる。
 芸術作品などは、まさに喜怒哀楽を凝縮し、計り知れない密度で表現された心理世界である。時計時間では計れないところの人間の心理時間をある空間の密度と時間の深さに拠って表現する。私たちはそれらに触れることで、自分の精神を鍛え・感性を豊にすることができる。一方、時計時間にばかり縛られていると何がおこるかと言えば、精神が枯渇し、感情そのものが喪われていくばかりだ。
 
 時計時間は、量的に計測することが可能であるが、常に社会的制約される。社会の時間軸でしか動かない人間は産業廃棄物になる危険性と背中合わせである。時計時間(社会的制約)ワーク リトミックの視点を持つこと、外れたことのメリットを考えることがないと、心にゆとりが生まれないばかりか、文化というソフトパワーを失うことになる。相手の時間軸・自分の時間軸はそれぞれである。違いを知ることから感動や関心・好奇心が生まれるのではないか、と私は考えるのである。感動や関心を手放さないために、認知時間の何たるかを解析することで、暮らしの時間の深さ・密度を高められないものかと文章を書く楽しみに溺れている。
 
 

何か釣れますか? いいじゃないですか、せっつかないでくださいな!

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