Column  
FC岐阜観戦記since2005
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2010/11/06

平城遷都1300年祭探訪



   閉幕間近の平城遷都1300年祭の観光で奈良県を訪れた。4月から行われていたこのイベントも残り数日となり、歴史好きの老若男女(いわゆる歴○○)や、そうでない人たちで埋め尽くされていた。(筆者は後者に属する。)平城宮跡のメイン会場は約1km四方の広大な敷地(おそらく田園か休遊地)にいくつかのイベント会場が点在しているため、その移動だけでも時間がかかってしまう。

   日陰や、休憩所は少ないので、おそらくこの夏の暑さでは入場者数に影響があっただろうことは想像に難くない。この季節、この天候位が絶好の探索日和であった。歴史に然程興味がなくとも、実際にその場を訪れ、復元された「大極殿正殿」や「朱雀門」を目の当たりにすると、ひと時悠久の時間に思いを馳せることができる。学生時代に学んだ「天平の甍」をまさに体現できた空間であった。

   このコラムを寄稿するにあたり、昔からのささやかな疑問について調べてみた。それは、「京都府」「大阪府」などは、古来、都が置かれていたので『県』ではなく『府』になると教わった記憶がある。そして、その時「それでは、奈良は…?」と誰しもが一度は疑問に感じたことはないだろうか。ふと思い出したので、調べてみることにした。歴史のコラムではないので、簡単に説明すると、次のようなことである。

   …ことの始まりは明治維新後の明治初期、版籍の奉還や、廃藩して置県する時に、当初は、京都府、大阪府以外にも、「奈良府、神奈川府、函館府、長崎府…」いくつか「府」はあった。政治・経済の主要都市や、江戸幕府時代からの重要な地域が「府」と定められた。その後、当時の中枢の政治家の思惑により、統廃合が繰り返されたり、または「太政官布告」などの法令により、最終的に今の二つに落ち着いたようだ。「堺県」から独立して現在の「奈良県」が形作られる時に、もう一度「奈良府」とするよう運動が起きたが、それほど重要視はされず、黙殺されたともある。
   調べれば、調べるほど奥が深く、むしろ最初の命題である「都が置かれなところが→府」自体があまりに単純すぎる定義で、ことはそんなに単純ではなかったようだ。「奈良県」は幾多の思惑に翻弄され『府』になりきれなかったまま現在に至っているようだ。
   将来、「FC岐阜」の呼称が変わることがあったとしても、その時はいろいろな思惑や利害関係が犇めき、一筋縄ではいかないのだろうか。呼称は、単純明快が一番良いのかもしれない…。

   さて、この旅はやがて、青丹よし奈良路を抜けて、和歌山の南紀白浜、熊野古道を巡る道程へと進んでいく。

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2010/10/14

秋の飛騨路〜小径を訪ねて〜




   サッカーにも、FC岐阜にも絡まないが、訳あって飛騨路の旅行記を掲載することにした。高山市高根町(旧大野郡高根村)の「野麦峠」を訪れた際「峠の資料館」の館長と話する機会があり、以前に較べて入場者がかなり減少してしまったので岐阜に戻ったらPRしてしてほしい旨依頼をされるが、その有効な術を持たない為、せめてこのコラムで喧伝させていただこうと思い立った。。


   10月半ば、この時期はまさに紅葉の真っ最中。ところが館長曰く、「今年は、夏の猛暑のせいか色付き悪く、特に「赤」があまりきれいに発色しないまま葉が散りだした。」との事。それでも、空は高く心地よい日差しは、高地ならではの趣である。仰ぎ見る乗鞍岳の山頂も手の届かんばかりで何の遮るものもない。


   「野麦峠」については三十余年もの前になるが、当時デヴューしたばかりの、大竹しのぶさんが主演した東宝映画「あゝ野麦峠」(原作 山本茂実〈やまもとしげみ〉)が公開され、その頃が観光客のピークだったという。その後数年は映画の続編やテレビドラマが作成されブームが続いたが、今ではその当時の活況は望めないようである。


   また、映画がリメイクされないかとは館長の弁ではあるが、訪れる側にすれば人里離れは観光地はあまり混雑しないほうがいいと思ってしまうのは我儘な発想なのか。平日のこの日、筆者の訪れた時間帯には、精々15人程度の訪問者であった。

   そして、国道(361号線)を外れて、薄(ススキ)の群生する「深秋の小径」を散策する。木漏れ日のなか、湿気を含まない風は秋色に戦ぐ。穏やかな時間の流れに暫し身を委ねる事ができた。




   こうして命の洗濯と呼ばれるリフレッシュを終えて岐阜に帰ってからは、こちらも「天皇杯」をスルーして鋭気を養ったFC岐阜のアウェー愛媛戦(10月17日)に集中しよう。

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2010/10/10

「Jの履歴書」(再読)


   川淵三郎著、「J」の履歴書〜日本サッカーとともに〜(日本経済新聞出版社)を再読した。新聞に連載中は毎日読むことができなかったが、単行本で出版されて続きで読むと、氏が携わったJリーグ発足まで逸話や、黎明期の苦労を改めて実感する。当時の時代背景や、サッカー関係者以外の人脈に及ぶ出来事など、興味深い話の数々は枚挙に暇がない。
   「岐阜に、Jを」で森山泰行氏から始まったFC岐阜のムーヴメントも、こうした流れの中で具現化したことがよくわかる。また、日本のサッカー界における、今西和男氏(現FC岐阜代表取締役社長)の存在の重要性、影響力の大きさを改めて再認識することができる。まさしくこの激動期のFC岐阜を追い続け、サポートできる立場にいられることは僥倖であると言えよう。

   折しも、日本代表のカテゴリーでは、A.ザッケローニ監督が、強豪アルゼンチン代表戦での初陣を飾った。そのインタヴューで同氏は、Jリーグの役割の重要性を説き、J2を含めた各クラブを視察するなどし、その取組に感謝の意を添えている。ザックの密偵がメドウにも潜入していたかと思うと心躍る。
   日本のサッカー組織が、とりわけ他の競技団体に比べて、A代表を頂点に理想的なピラミッド構造を形成しているのは、川淵氏らのような、情熱を持った牽引者の存在があることを忘れてはならない。氏は以前、Jリーグ百年構想に関連したインタヴューで、西暦2050年に再び日本でW杯(もちろん単独で)を開催し、日本代表が優勝する目標を掲げている。その時に自分は間に合わないだろうとも付け加えて。しかし今「2022」がクローズアップされている。夢の実現は、そう遠くない未来に待っているのかもしれない。
   J1の舞台で活躍するという「FC岐阜」の夢に手が届くのも、そう遠くないことを期待しよう。

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2010/09/11

ザッケローニという選択


   難航していた、日本代表の新監督にアルベルト・ザッケローニ氏の就任が発表された。遅れた原因は、おそらく交渉の方法や考え方に甘さがあったのだろう。今回、報道された監督候補とされる人たちは、いわゆるサッカーの本場、ヨーロッパ各リーグの第一線で活躍している名将たち。やはり、正式な代理人、交渉人を立てて、正攻法で契約交渉するのがセオリーなのだろう。代表選手の海外移籍では当然のことが、いざ協会側ではなぜできなかったかが疑問である。原博実技術委員長ひとりの肩に懸かっていた印象が否めない。
   結局、この時期までフリーな中から、選出せざるをえない。それでも、ザッケローニ氏のような優秀な経歴を持つ指導者を監督に迎えられるようになった日本代表、喜ばしい限りである。確かに、今までも外国人監督がいなかったわけではないので特別な事ではない。ジーコ氏や、オシム氏はもちろん名声のある、選手・監督ではあるが、それでもヨーロッパの主要リーグの中心で実績があったとまでは言えないかも知れない。
   そんな中、ザッケローニの監督就任は、日本代表にとって新たな1ページを刻む事ができたと思う。これで、名実共に世界基準(グローバルスタンダード)の仲間入りができたのではないか。もちろん結果を残さなければ、何の評価もされないので、まずは来年のアジアカップでの手腕に期待するしかない。

   どのカテゴリーでも、やっぱりStep by Step (by Step)での進化を期待しよう。


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2010/07/12

祭りのあとの祭り



   「無敵艦隊」が決勝トーナメントを常に「1−0」を重ねて優勝した。相手に左右されない、安定した、そして「美しい」サッカーをみせてくれた。スペインの国章を模した代表のエンブレムには、この偉業を祝して、赤い星が冠されることだろう。
   今回、治安が不安視され、ブルぜラの音に悩まされ、ジャブラニの扱い辛さに翻弄されたW杯2010、まさかの南米陣の失速に驚かされたが、ヨーロッパのTOP3は戦前の予想を裏切らなかった。
   我らが日本代表について言えば、大会前の不振から考えると、充分な成績としておきたい。冷静になってみれば、ブラジルクラスは別にして、群雄割拠のW杯本大会での評価基準は、予選リーグを突破するかどうかだろう。今回アウェーの大会でみごとクリアしてくれた。そこから先の決勝トーナメントでの戦い方や、戦略は、もっと上の偉い人たちに託そう。それにしても、いまだから言えることだが、惜しむらくはパラグアイ戦を制して、優勝したスペインと対戦させたかった。そこであっさり負けたにしても、世界との差を身をもって体感してほしかった…。

   この祭りの後に、それぞれの選手に次のステージが待っている。Jリーグが再開されても、今回の盛り上がりが続くことを期待する。日本サッカー界の最終目標はW杯ではあるが、そのためにも、足元のJリーグが注目されないと次回につながらない。いつの日か八咫烏(やたがらす)の頭にも星が輝くことを夢見てW杯のコラムを締めよう。

   さあ、来週からはJリーグ、Jリーグ。


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2010/06/30

プレトリアの忘れ物


   日本代表のW杯2010が終わった。ホームで行われた日韓共催のW杯2002と同じ成績ではあるが、アウェーの大会でのこの記録は、賞賛に値する。しかし、いまだにPK戦での敗北をどのように評価すればいいか、答えが見つけられずにいる。
   ただ、運がなかったでは片付けられない、何か見えない力が働いているのだろうか。最後はパラグアイ代表の冷静かつ、緻密な試合運びに屈したのだろうか。
   ひょっとしたら、これはあくまでも穿った見方ではあるが、日本代表が延長後半ぎりぎりまで、ゴールを狙っていたのに対して、パラグアイ代表は延長終了5分前あたりから、頭の片隅でPK戦に備えて、どこに蹴るか、キーパーの動きはどうか、川島を観察しながらシュミレーションに入っていたかもしれない。その、狡猾さとまでは言わないが、試合の流れを掴み取るセンスは、日本代表のそれを上回っていたと思える。

   今回の成績を、後の歴史家は、W杯開幕前に4連敗したことで、どん底を経験したことにより、ある意味その反動でチームがひとつにまとまり、いい方向にはたらいた側面を強調するかもしれない。尋常ではない環境ゆえに頑張れたと。しかし、これでW杯が最後というわけではない。必ずこの経験を次に生かさなければならない。プレトリアの忘れ物は、4年後のブラジルの置いてある。

   これで、次の目標ははっきりした。W杯ベスト8以上、そして、あらためてW杯ベスト4。もう、この目標を聞いて、世界中の誰一人として、笑うものはいない。
   われわれの為にも、もちろん自分たちの為にも、人生をかけて戦ったサムライブルーに心から感謝する。

   有難う、ニッポン!!


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2010/06/26

4戦目の意味


   日本代表が、おそらく戦前の大多数の予想を裏切ってW杯1次リーグを突破した。しかも、2勝1敗の好成績で。第1戦目のカメルーン戦をフロックなどと酷評した海外のメディアも、2戦目、3戦目でその論調を変更せざるを得なかった。また、日本国内の反応は、いままでに見たことのないほど驚異的な素早さでの手のひら返し!あれほどだった岡田監督にも賞賛の声、声、声。

   これで世界における日本サッカーの評価が上がり・・・、次のW杯のアジア枠が増え・・・、FIFAランキングも急上昇・・・、海外メジャークラブからのオファー殺到・・・、など、いいこと尽くめ。

   しかし、1番喜ぶべきことは、そんなことではない。単純に日本代表の本気のゲームがもう1試合見られること。3試合は保障されていたが、予定されていなかった(?)4戦目があること。こんなに嬉しいことはない。
   実はそこがサッカーを好きな人間の本音なのである。

   頑張れ、ニッポン!!


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2010/05/27

日本代表の夜明けは近いか?


   2010年5月某日、都内某所の“サムライブルーパーク”を訪れた。平日の夕方ではあったが、翌月にW杯を控えたサッカー日本代表の応援イベント発信基地としては、少々物悲しい。W杯への出場は決めたが、その後のテストマッチなどの成績不振が、そのまま反映しているようである。あるいは、W杯自体が、既に日本代表にとって、日常化しており、今更、しかも開催前からそれほどまでに騒ぐことはないということか。

   自国開催を含め、4大会連続のW杯出場、それぞれの出場を決定させて試合を、マスコミは次のように伝えている。
 1997年11月27日「ジョホールバルの歓喜」、
 2005年6月8日「バンコクの必然」、
 2009年6月6日「タシケントの憂鬱」。
   なぜ「憂鬱」かというと、勝利してW杯出場を決定したのではあるが、その内容が、あまりにも不甲斐なかったため、今後の不安を予見した表現となっている。既に、注釈を入れないと伝わらない。「ドーハの悲劇」はあまりにも有名であるが、それ以降は年を追うごとに知られなくなっている。

   今回、日本代表は、ベスト4を目標に掲げているが、アウェーのW杯で1勝もできていないチームが目指すべきことは、「まず1点」「まず勝ち点1」「まず1勝」そこからスタートするべきだろう。 W杯は、もちろん出場するだけでも価値はあるが、やはり一定の評価を下せるのは1次リーグを突破できるかどうかだ。単純に、W杯に出場したから、世界のベスト32ということではない、この大会もFIFAランキングでいうところの、1位(ブラジル)から105位(北朝鮮)までの幅がある。しかしその中で1次リーグを勝ち抜ければ、世界でのベスト16の評価に値する。その時こそが、本当の意味で日本代表の夜明けと言えるだろう。
   ひとつひとつを積み重ねて、何とか結果を残してほしいものである。

さて、暮れなずむ“サムライブルーパーク”で「サッカー もっと リョーマ」が見つめる13500キロ先には決戦の地、南アフリカがある。その憂いの表情は何を物語っているのか・・・。しかし結果はともあれ、リョーマと共にいつまでも日本代表を追い続けて行こう。
    いずれにしても、世界中は注目するFIFAワールドカップ南アフリカ大会は、まもなく開幕の時を迎える。


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